10月25日初回弁論+市民集会

10月25日、待ちに待ったソロクトの補償法請求訴訟第1回期日が開かれました。昨年12月の最初の補償金請求から実に9ヶ月以上を経て、ついに司法の場で植民地時代における日本の隔離政策が裁かれるのです。
この日、ソロクトからは4名の原告が法廷に駆けつけました。どの方も高齢で、重い後遺症を抱えておられるのに、ぜひとも裁判をこの目でみて、自分の声で訴えたいと、立ち上がった方々です。自治会の方々も多数、原告をサポートし、裁判を応援するために来日されていました。
それに、実に心強い韓国の弁護団のみなさん。団長はじめ7名の弁護士がずらりと並んでいます。

午後1時半の開廷。
東京地裁前にはたくさんの支援者が、そして全国から応援に駆けつけた原告達が群れをなしていました。大法廷の傍聴席におさまりきれず、弁護団の指示に従って半分ずつが入廷します。途中で入れ替えがありましたが、それでも多数の方が傍聴をあきらめたほどでした。

さて、弁論です。
訴状と答弁書、準備書面を取り交わしたのち、原告の意見陳述に移りました。
最初に証言台に立ったのは、萎禹錫(カン ウソク)さんです。左脚が付け根から欠けている萎さんは、力強く意見陳述をはじめました。日本時代の苛酷な強制労働。煉瓦工場で作業中、監督から角材で思い切り殴りつけられ、その傷が後に化膿して、切断されてしまったこと。麻酔も効かない中、耐え難い激痛のもとに切断された苦しみ、そのときのノコギリの音を忘れることはないと訴え、裁判長に「私の左脚をみてください」と叫びました。
続いて蒋基鎭(チャン ギジン)さんが進みでました。田舎の農家で家族にいつくしまれて育ったこと。15歳で発病し、巡査から執拗な入所勧奨を受けたけれど、家族はそんなところにはやらないと抵抗したこと。けれど、ついに抗しきれず、「治療の場」という言葉を信じて、家族と別れ、収容されたこと。ところが、治療どころか夜明け前から日暮れまで強制労働にかり出され、日本人の看護長からは「お前ららい病の10名よりも松の木1本の方が大切だ」とののしられたこと。敬虔なクリスチャンであるチャンさんは、強制された神社への参拝を拒絶したために、呼び出され、こん棒で気を失うまでたたかれた上に、冷水を浴びせられ、それでも拒み続けると、監禁室に入れられ、懲罰として断種されました。
「人間のいのちとつながっている、それを絶たれてしまった」
涙ながらに訴えるチャンさんの姿に、傍聴席のあちこちからもすすり泣きの声が漏れました。

続いて弁護団から徳田弁護士がこの訴訟がはじまった経緯、ソロクトに行って目の当たりにした想像を絶する日本時代の被害、加害国の国民としてその責めをどう受け止めるべきか、ひとしく原告たちも補償法の適用を受けるべきことを述べ、早期解決を訴え、最後に水口弁護士が、被告国の不誠実な答弁書(形式的に補償法の定める「日本の療養所」には該当しないという主張を展開するのみで、原告たちの訴える「被害」についは故意に答弁を避けているのです)に対し、鋭く釈明を求めました。

弁論終了後の報告集会では、熱心な意見交換がなされました。次々にマイクを持たされた韓国の弁護士のみなさんが、こぞってこれまでソロクトの存在やハンセン病問題に気づいてこなかったことに対する法曹としての責任について触れられ、補償法請求にとどまらず広く韓国でのハンセン病問題解決のために力を尽くしたいということばには、誰もが力づけられたと思います。

午後6時からは場所を変え、毎日ホールで市民集会が開かれました。
ここでは原告として金基顯(キム ギヒョン)さんがインタビューに答えました。
有無を言わさぬ「募集」という名の収容、日本人園長の銅像を建てるために、土地を拓き、人工の山をつくり、巨大な公園つくりの作業にかり出されたこと。あまりに残酷な懲罰、飢え、過酷な労働。どの方の話も、私たちの想像をはるかに超えています。日本があの時代、かの国で何をしたのか、どうしてそれが起こりえたのか、しかと検証すべきことを、改めて突きつけられた思いでした。
つづいて参加した支援の方や日本の原告がつぎつぎにマイクをにぎってリレートーク。この裁判をおこすきっかけをつくられた広島の研究者滝尾栄二さんも紹介され、立ち上がり、感慨ぶかく本日の感想を述べられました。
さいごには、4名の原告全員が前にならび、会場を埋め尽くした支援者のあたたかい拍手を受けて、集会は幕を閉じました。
たくさんの方の思いが、原告のうったえにつながり、ひとつになった日でした。

S.K

 集会「私たちもふるさとに帰りたい」
 ダイアリー