2005年5月23日 原告尋問を実施


5月23日、霞ヶ関

 5月23日。霞ヶ関。晴れ渡り,見上げれば吸い込まれそうな青空が広がっています。初夏の爽やかな陽気の中,道を行く人たちも心なしかはなやいだ表情をしています。
 その中を,裁判所の正門に向かってゆっくりと歩くたくさんの人の列がありました。彼ら,彼女らも道行く人々と同じように和気藹々と言葉を交わしてはいますが,その表情の奥には,重い決意のようなものが感じられます。
 そうです,今日は小鹿島の第5回口頭弁論期日です。7月の結審に向け,今日は訴訟の中でも極めて重い意味を持つ原告本人尋問が行われるのです。行列の先頭には,車いすに乗った原告の蒋基鎭(チャン・ギジン)さんと義足のためぎこちない足どりの李幸心(イ・ヘンシム)さんがいます。彼らの両足は日本支配下のソロクトで行われた強制隔離・労働の結果失われてしまいました。彼らが自分たちの足で裁判所に向かうことさえも困難にした歴史そしてそれを強いた日本政府の対応を問うために,正義の意味を問うために,彼らは遠く離れた小鹿島から来たのです。高齢や身体の不調のため日本に来ることのできない多くの原告たちの想いを背負って,二人は静かに裁判所の門をくぐりました。

 今日も支援の大勢集まってくださり,大法廷の傍聴席は満員です。一番前の席には,川崎から駆けつけてくださった在日のハルモニたちの色鮮やかなチマチョゴリがあります。その後ろには小鹿島から原告に付き添ってきた入所者の方たち,韓国の弁護団が並んでいます。裁判には毎回必ず駆けつけてくれる国内の退所者の方達の姿も大勢見えます。他の傍聴希望者に席を譲ったため傍聴席に入りきれなかった人たちも,法廷の外の廊下から祈っています。



帰りたいですが…

 11時になり,3人の裁判官達が入廷されました。静まりかえる法廷。蒋さんが証言台へ行き,担当の大槻弁護士が立ち上がって尋問が始まりました。
 病気にかかったことが分かったときは,悲しみのあまり自殺しようとしたこと。日本人の警察官に「入所しなかったら家族が被害を受けることになる」と脅され,泣きながら小鹿島へ発ったこと。病気を治して再び家族と生活することだけを希望にして到着した小鹿島で,着いた当日から強制労働に駆り出されたこと。蒋さんは50年以上前に暴力的に与えられた出来事を,決して忘れることのできない忌まわしい体験を,1つ1つ振り返っていきます。キリスト教を信仰しているにも関わらず神社参拝が強要され,それを拒否したら凍えるような監禁室に閉じこめられた断種手術をされた,と,語るに辛い壮絶な被害を,蒋さんは法廷に刻み込むように述べられます。今この場で自分がしっかりと伝えなくてはこの歴史が葬り去られてしまう,そんな使命感が彼の後ろ姿からは伝わってきました。しかし,それでも,大槻弁護士にもう60年以上も帰っていない故郷のことを問われ,「帰りたいですが,帰れません」と答えた時,蒋さんは声が震えることを止めることはできませんでした。「園長・職員も日本人,服装も日本式,全部日本人がやったことなのに,なぜ自分たちが補償されないのか」蒋さんが最後に裁判長に向けて訴えたこの言葉に,国はいったいどう反論できるというのでしょうか。

「日本が作った療養所なのに…」

 蒋さんの後は,李さんが証言台に立ちました。まだ3歳の時に入所し,70年近く人生のほとんどを小さな小鹿島の中で過ごすことを余儀なくされてきた李さんは,今回裁判のために,初めての外国となる日本にやってきました。両親の収容に伴って3歳の時に小鹿島に強制連行されたこと,小鹿島の鉄条網に囲まれた未感染児童の保育所で,親と会えなくて泣き暮らしたことなどを久保井弁護士の語りかけに答えて切々と証言されます。話が愛する父親が受けた殴打事件に入ると,その辛すぎる記憶に李さんは言葉を詰まらせます。仲が良かった日本人の職員が,濡れ衣をかけて石炭箱で殴りつけ,軍靴で踏みつけたため,父親は半死の状態になったしまったこと。そしてその父親の「死ぬ。助けてくれ」という悲痛な叫びをただ泣きながら聴くしかできなかった少女の無力さ。李さんは,その職員の名前を問われて「ナガタ!!」と日本語で叫びました。
 わずか10歳そこそこの歳で,病気に伏せた両親の分の労働までをもこなす過酷な生活。李さんはソロクトでの生活で一番辛かったことを問われ,お腹が空いたことと答えました。「子どもは米を2合しかもらえなかった。しかも米は虫が湧いていて食べられる部分は少なく,米は病気の両親にほとんどあげたので自分たちは大根や白菜しか食べられなかった。本当に本当に辛かった。」と,李さんは小鹿島から持参した,日帝時代に配給に用いられた古い木製の升を不自由な手で振り上げて訴えました。そして辛い思い出に感極まったのか声とも溜息ともつかぬ「あー」という声を発しました。その声にならない声が語る彼女の人生の痛ましさに,目頭に手を当てる傍聴人も少なくありませんでした。
 最後に裁判所に訴えたいことは,と問われ,李さんは「テンノウヘイカ!」と日本語で始めました。「テンノウヘイカが作った国立病院に入っていたのに,なぜソロクトだけ補償を受けられないのか」,と。彼女が時折口にする「ナガタ」「テンノウヘイカ」といった日本の固有名詞。韓国人であり,小鹿島で暮らし続けていた李さんが,こうした日本人の名前を記憶し続けざるを得なかったこと,このこと自体が,小鹿島は国立の療養所ではなかったとする政府の答弁の欺瞞性を明らかにしています。
 弁論期日が終わった後,弁護団のメンバーが慰労の声をかけると,李さんは弁論の最後に述べた「テンノウヘイカが作った国立病院なのだから補償されるべきだ」という訴えを繰り返した後,こう不安そうに付け加えました。「私,間違ってないね?」彼女の質問に対して私たちは勝訴をもって答えなくてはなりません。


「歴史的な事実を知り,検証し,行動しよう」

 弁論期日が終わった後,18時30分から星陵会館で「韓国ソロクト・台湾楽生院のハンセン病裁判を知るつどい」が開催されました。満席だった裁判に続き,熱心な支援者たちで集会場の大きな星陵会館のホールがほぼ埋まりました。
 集会はまず神美知宏全療協事務局長の「歴史的な事実を知り,検証し,行動する必要がある。そして日本国民全員がそれをバックアップする必要がある」との挨拶で幕を開けました。その後ソロクト・楽生院の様子やそこに暮らす人たちの証言を撮ったビデオの上映,国宗弁護団長から訴訟の経過の説明と支援のための署名募集の要請がありました。続いて沖縄愛楽園の退所者でシンガーソングライターの宮里新一さんが「五月の街」という曲を歌われました。折しも今日は,あの熊本判決の控訴断念の日からちょうど4年が経った日でした。熊本判決から控訴断念までの心象風景が心に染みる声で歌われた「五月の街」とスライドで映された当時の写真や新聞記事に,4年前の闘い,そしてそこに込められた想いを胸に蘇らせ,涙を拭う人もいました。あれから4年,ハンセン病者に対する人権侵害を反省したかに思えた政府が,小鹿島や楽生院の人たちに未だに補償拒否をするような態度をとり,老齢の原告たちを苦しめています。あの5月の時のように,私たちはまた力を合わせ不正義をただしていかなくてはならない,宮里さんの歌を聴きながらそう思わずにはいられませんでした。
 集会は最後に,小鹿島・楽生院裁判及び楽生院の移転問題を力を合わせて支えていくアピールが採択され,会場の人たちの声を合わせての「頑張ろう!」三唱で締めくくられました。

 次回小鹿島裁判の期日は7月19日11時からです。おそらくこの日に結審がされることと思います。裁判もいよいよ大詰め,署名や傍聴のさらなるご支援を頂き,勝訴への気運を高めていきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いします。(M.T)