79歳 女性

ハンセン病の症状は、初め手に顕れました。私は、父に連れられて近所の病院に行きました。そのとき、父は、そこのお医者さんから、私の病気がハンセン病であるとの診断を受け、「ソロクトに行けば,治る。」と言われたそうです。両親は、二人で、深刻そうに話をしていました。
私のふるさとは、ソロクトの近くの高興(コフン)というところです。高興では、何人かがハンセン病にかかっていたそうですし、私の遠い親戚にもハンセン病にかかって自殺した人がいました。ハンセン病にかかると、伝染病だということで周りの人たちから怖がられ、隣に座ってくれなくなったり、食事も一緒にしてくれなくなります。私は、自分がハンセン病だと知って、死ぬしかないと思うようになりました。
私は、フグの毒で死のうと思い,魚売りのおじいさんにフグを分けてもらいました。おじいさんは,子供の私がフグを欲しがる理由を聞きましたが,私は薬にすると言ってごまかしました。しかし、私は、フグを食べてみたものの,呼吸が苦しくなったり吐いたりするだけで、死ぬことはできませんでした。
私は、どうしても死ぬことができず、かといって、故郷の街では生きてはいけないので,ソロクトに行くしかないと思うようになりました。しかし,私の親は、「そんなとこに行ったら死んでしまう。」と言って,私のソロクト行きに反対しました。私と離れたくないと思ったのか、ハンセン病の私を恥ずかしく思って外には出せないと思ったのかは分かりません。
どうしてもソロクトに行くしかなかった私は,うらのおじいさんにソロクトに行くことをお願いしたところ,車で迎えにきてくれました。
ようやくソロクトにたどり着いた私は、最初は体がだるくてまったく動けませんでした。食事もほとんどとることができず,お粥を口にするのがやっとでした。
私は、もともと死にたくて、でも死にきれなくて、ソロクトに来ました。ですから、私としては、体が痛くても、お腹がすいても、病気が治らなくてもよかったのです。治るなら治ればいいし、死ぬなら死ぬで、それでもいいと思っていました。
体が不自由だった私は、作業の分担はありませんでした。私の介護は、同じ院生の患者がしてくれました。
宿舎の中はとても寒くて,人があふれていました。今のようなベッドなどは全くありませんでした。あふれた人はかますを敷いてその上に寝たりしましたが,そのかますを敷く場所さえもないことがありました。
食料は,麦・米がほんの少し与えられて,それを茶碗に入れて水を注ぎ,それを大きな釜の中に入れて炊きました。量が少ないものですから、半分だけを食べて、後の半分を残して後で残りを食べるということもありました。とにかくお腹がすいて言葉にできないくらいでした。労働をしない私でさえそうなのですから,他の重労働をしていた人たちは,もっと大変だったと思います。
手や足をいためたときには、切断してしまうことがたびたびありました。中には、患者に切ってもらうこともありました。私も、戦前、右足を切断しました。
しばらくして,戦争が終わりました。その後は、食料不足ではありましたが,自治会活動ができるようになってからは院内での待遇は劇的に改善されました。