C.G.さん 83歳

入所
私は昭和17年、18歳(満17歳)のときにソロクトに来ました。入ったときはソロクトに2000人くらいの人がいたのではないかと思いますが、私が入った部屋には一部屋で10人くらいの人がいました。
私の家は農家でした。私は子どもの頃からハンセン病にかかっていていました。両親が畑に出て留守のときに巡査がやってきて、私の顔をじっと眺めて帰って行きました。その後両親が警察署に呼ばれて行きました。帰ってきた両親は、「お前は病気だからソロクトに行くか」と言いました。私は治療するところだと思い「行きます」と答えました。
しかし、行ってみるとそこは本当に辛いところでした。こんなところだと知っていたら私はけっして「行きます」などと言いませんでした。家が貧しかったわけでもないので両親と一緒に家にいた方が良かったと思います。

作業
ソロクトではカマス(わらむしろを二つ折りにして作った袋)を作る作業をさせられました。材料を手でもまなければならなかったのですが、この作業がとても辛いものでした。そしてこれを編んで縫わなければなりません。私はまだ手が良かったのでいいけれど、手が悪い人にはもっと辛かったと思います。作業の辛さに耐えかねて海に飛び込んで自殺した人もたくさんいました。作業にはカマス何枚といったノルマがあって、決められた数を時間内に仕上げなければなりませんでした。夜の7時頃まで働いて、点呼のあとに就寝しました。
私は赤レンガを作る工場でも働いたことがあります。その工場での怪我がもとで、戦争の終わった年に片足を切断しました。作業のせいで片足失ったようなものです。

逃走と懲罰
辛かったから逃亡する人もたくさんいました。逃亡した人は陸地のほうで捕まると船に乗せて連れてこられ、四つんばいにさせられて棒で打たれました。私自身は逃亡しなかったのでそんな目にあうことはありませんでしたが、そういう光景をたくさん見ました。打たれたあとはその人は監禁室に入れられました。監禁室は今もソロクトに残っていて建物はそのままですが中の方は変わっています。当時はセメントの床で布団もありませんでした。打たれて監禁室の中で死んだ人もいます。生きていればまた引き出されてまた打たれました。それが死ぬまで繰り返されることもありました。
監禁室に入れられた人は多くが罰として断種されました。
日本人はその当時、本当にひどいことをしたのです。

食事
食事は1日に干し麦2合と米が2合与えられました。ほかには漬物も何もありませんでした。自分で飯をたいて、塩だけで食べていました。自分たちで作った野菜を塩で味付けして食べたりもしましたが、それは野菜が収穫できる秋だけの話でした。
飯をたくには薪が必要ですが、この島で木を切ることは許されていませんでした。落ちている葉っぱを拾っただけでも断種されました。薪は船で別の島へ行き取って来なければなりませんでした。

社会とのかかわり
私はこの島に来てからはレクレーションのバス旅行で島を出たことがあるほかは島を出ていません。家族にはずっと会っていませんでした。去年2人だけ生き残っている弟に会いました。弟たちは自分を探して会いに来てくれたのですが、50年も会っていなかったので見てもわからなくて、実感がわきませんでした。