77歳 女性

入院まで
ソロクトでの生活
食事
監禁室
解放

社会復帰

入院まで
私は満16歳のときにソロクトに来ました。住民票では1930年3月20日生まれになっていますが,本当の生年月日は,4年の違いで1926年7月12日です。現在,78才(満77才)です。
ソロクトに来たのは,17才(満16才)のときです。1935年にきたことになっているかもしれませんが,実際には満16才で来たというのが真実です。
出身は,忠清北道の農村の永同(ヨンドン)というところです。実家は農家でした。私が生まれる前に父の兄がこの病気で亡くなっていました。
病気であることがわかったのは12才のときでした。足に急に斑紋ができ,痛みが出たので病院に行ったところ,漢方のお医者さんからハンセン病だと知らされました。
ハンセン病と診断されることの意味を,12歳の時はよくわかっておらず,ただ,足が痛いという思いしかなかったのですが,ある日,おばあちゃんが「学校にいくな」と言い出しました。また,家族がみんな泣いていたことがあって「どうして泣いているんだろう。」と不思議に思ったりしました。
学校に行かなくなって5年を経過した頃,新聞で「6ヶ月間,ソロクトで治療をすれば,らい病が治ります。」という広告を見つけました。その広告を見つけてすぐに私は家族にねだって,ソロクトに行かせてもらうように頼みました。
ソロクトが本当はどんなところなのかは,全然わからなかったけれど,ソロクトに行けば病気は治ると思っていたのです。
その広告の問い合わせ先だった村の事務所に連絡をとり,手続きをとりました。指定された日に,指定場所だった清州(チョンジュ)に着くと,そこには忠清北道だけではなく,他の地域からも集合場所の倉庫いっぱいに人が集まっていました。でも,私の村からは私一人だけでした。
船は麗水(ヨス)から出ましたが,そこまでは,荷物を運ぶ車に乗って行きました。
ふるさとでは,家族が学校に行かせてくれなかったので,私はソロクトに行ったら学校があって,そこに通って勉強しようと思って,本をたくさん持ってきて,とても楽しみにしていました。

ソロクトでの生活〜強制作業について
ところが,ソロクトでの生活はそれどころではなく,働かされ続けの毎日でした。
6ヶ月たっても,病気が治らないことがわかって,「どうせ治らないなら家に帰りたい。」と泣きました。でも,願いが叶うことはありませんでした。
午前中は煉瓦を作るための土を工場に運ばされ,土を煉瓦の形にし,それを工場に持っていって焼きあげるという作業をさせられました。午後は焼きあがった煉瓦を船着き場まで運びました。全く休憩を与えてもらえず,とても辛かったです。
監視の目も厳しくて,日が暮れる時刻に班の人数をチェックされました。当時は6000人の入院者(入所者)がいて,一部屋に12人で生活していました。強制作業のときは,20人で形成される1グループに煉瓦3000個というようにノルマが割り当てられました。その中に,足などが不自由で働けない人がいても特別な考慮はされませんでした。煉瓦を一日に3000〜4000個を作ろうとしたら,夜明けから夜中10時まで働かざるを得ませんでした。朝起きたらご飯を食べ,一日中ずっと運搬作業の繰り返しです。仕事が終わって一眠りしたら,すぐに朝が来てしまいました。
春から秋までこの煉瓦つくりが休む暇なく強制されました。冬は煉瓦を作らないかわりに,米をいれる袋(かます)づくりに明け暮れました。
このかますは,島内で私たちが利用するものではなく,戦争の物資として,すべて島外に運び出されました。
私は,病気の後遺症で手が不自由でしたが,足は丈夫だったため,作業の内容について全く考慮されることはありませんでした。それどころか,煉瓦やかますづくりのせいで,手の障害はいっそうひどくなってしまいました。同じように,日帝時代の作業で,障害がひどくなった人たちはたくさんいます。
このように,治療どころではなく,日帝時代は,大風子油液の注射を打たれるか,もしくは丸薬を飲むだけで,かえって痛みがますこともありました。

食事について
食事は,一日につき決まった量の麦と米しか割り当てられませんでした。三食分にはとても足りない量でした。一人ずつ個々に麦と米を割り当てられるので,自分のお椀に,水と一緒に少量の麦か米を入れて,そのお椀ごとお釜に入れて炊きました。お椀には水をたくさん入れて,できるだけ増やして炊きました。同じ部屋の足が不自由な人が,作業をしている間に炊いてくれるのですが,できあがるものは,ご飯といっていいのか,お粥といっていいのか,わからないものでした。
お腹がすいても,それ以外には食べ物がなく,せいぜいカボチャを蒸したものが,特別に重労働をした人に与えられるだけで,煉瓦づくりくらいだけでは,与えてもらえませんでした。
宿舎ごとに数坪の田圃を与えられて,白菜などのキムチ用の野菜を作ったりもしましたが,ほんの少量で,食料は全然足りませんでした。
私と同じ部屋の人で,あまりにおなかがすいたので,食べ物を盗んで,事務室で怒られたという人がたくさんいました。

監禁室
逃げたり,さぼったりした人は,担当者にどこまでも追いかけられて監禁室に連れて行かれ,殴られ,半殺しのようになって出てきました。
院の中の責任者はみんな日本人でしたが,韓国語を話す通訳がいました。また,当時は一人残さずみんな神社参拝をさせられました。
逃げようとした人の中には,捕まらなくても,逃げ切れなくて海で溺れて死んでしまった人もいました。また,あまりに強制作業が過酷なので,首をくくって自殺する人もいました。私自身は,死ぬのは怖かったし,逃げ出すためには海を渡らなければならず,溺れるのが怖かったので,死ぬことも,逃げることもできませんでした。


解放
作業の厳しさ,空腹,冬の寒さの中で眠らなければならないことが,植民時代に辛かったことです。
私がここに来て一年後に,戦争が終わりました。戦争が終わってからも一年くらいは食料はやはり足りませんでした。でも,作業はとっても楽になりました。日本人がいなくなって解放されて,みんなとても喜んでいました。まずみんなでやったことは,煉瓦工場を取り壊すことでした。

社会復帰について
社会復帰して外で暮らしたいと思ったことも何回かありました。自分で,いろいろと下調べもしたこともあったのですが,今はもうあきらめました。
私一人だったら,実現していたかもしれませんが,連れ合いがどうしても外には行きたくないというのです。