2005年4月2日 午前9時30分〜
台湾東呉大学法学院で、ハンセン病問題のシンポジウムが行われました。


台湾台北市にある東呉大学法学院で、ハンセン病問題のシンポジウムが行われました。
午前中は第1部「ハンセン病問題の社会的背景と現状」、第2部「日本の国賠訴訟、補償請求訴訟の経験に学ぶ」という二つのセクションが開かれました。

台湾でもハンセン病友人権弁護団が結成され、日本での補償請求訴訟の期日に参加し、集会でも発言すると共に、楽生院の入所者が現在抱えた問題の解決のために動いています。楽生院は、台湾のMRTという高速交通機関の施設用地として売却され、間もなく取り壊される予定であることは既に報告しているとおりです。そのため、入所者は居住の場を奪われ、強制退去を余儀なくされています。
しかし、敷地を売却し居住地域を取り壊す計画は、入所者達への説明なく作成され、入所者はだまし討ちのようにして仮設住宅への移転を迫られ、元々あった施設の半分以上は既に取り壊されてしまっています。こうした暴挙が可能だったのは、今も台湾にはハンセン病に対する強い偏見差別があり、ハンセン病患者が事実上隔離され、その存在は忘れ去られてしまっているからです。植民地時代、日本は徹底的な無らい州運動を展開し、台湾のすみずみにまでハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの宣伝活動を行い、その誤った認識を住民一人ひとりの胸に深く刻みつけました。それが未だに回復されず、そのままにされているからです。そのために入所者はふるさととのつながりを絶たれ、既に治癒しているのに、外で生活するすべを持たず、楽生院を終の棲家とせざるを得ません。

「最初に今いるところを出ろと言われたとき、反対する人はいなかったの?」と尋ねた私に、ある入所者はこう答えました。
「みんなおとなしいから。反対したら、院長から退院しなさいといわれるのではないかと思った。国に養ってもらっているという肩身の狭い思いで過ごしてきたから、退院させられても外には行くところがないから…。だから言いなりになるしかなかった。自分に権利がある、人権というものがあるということも知らなかったから、したがわなければならないと思った」

それがわずか2年あまり前のことです。

台湾の国民の多くは、楽生院の存在を知らず、ハンセン病問題についてまったく無関心でしたから、それこそ、第三者の目が届かないまま、楽生院は、歴史の狭間で抹殺されようとしていたのです。

ところが、1年半ほど前、学生達がこの問題に気付き、当初は楽生院を日本植民地時代の「古蹟」として残そうという運動をはじめました。学生達やその仲間はたびたび楽生院に入り、古蹟としての由来を尋ねるため、入所者を訪ね、ひとりひとりの話に耳を傾けました。そして、やがて、必然的に、古蹟そのものの保存ではなく、入所者の人権の問題としてとらえるようになりました。
今回のシンポジウムの主催者である台湾人権促進会(http://www.tahr.org.tw)も、昨年来、人権の視点から楽生院移転問題に取り組んでいる市民団体です。

4月1日から3日の日程で日本の弁護団が韓国の弁護団と共に楽生院を訪れ、台湾の弁護団と会議を持つと伝えると、その機会にとシンポジウムを企画したのです。

シンポジウムに先立ち、主催者である人権促進会、楽生院入所者、各国の弁護団からそれぞれ代表者挨拶がありました。

楽生院の入所者を代表して発言した李添培さんは、次のように訴えました。

「楽生院の入所者によってなる自救会を代表して、人権問題についてお話しできることをうれしく思います。
楽生院には今3つの問題があります。

1つめは日本の弁護団を通じて戦前の問題について22人の入所者が日本政府に補償を求めていることです。

2つめは、楽生院の全入所者三百数十人が、台湾の弁護団を通じて台湾政府に対し、国家賠償訴訟を起こしていることです。

3つめは、これはまさにせっぱ詰まっていることですが、楽生院をいかに保存するのかということです。目下の切実な問題として、捷運局の手によって患者が入居している施設の半分以上が、既に取り壊されてしまいました。残りの半分についても今年の4月から3段階に分かれて引っ越しを迫られています。患者としては非常に苦しいことです。
この場であえて強調したいのですが、日本と韓国の弁護団は補償請求に加えて、私たちがこれまで通り今の施設の中で生活できるよう、国際的に声を上げていただきたいと思います。
入所者のほとんどは70歳、80歳以上です。このような高齢者が強制的に引っ越しをさせられるとその死亡率が2、3倍になると言われています。強制退去は実に過酷です。先年、台湾の総統は我々に謝りました。そして金のメダルもくれましたが、しかし、依然として強制の引っ越しを迫られているのです。
二百数十人の入所者は共同署名によって引っ越しをしたくないと意思表明し、自分の命をかけても断じて応じないとしていますが、政府は何ひとつリアクションを起こそうとしません。そのような中で、一部の患者は心臓発作を起こしたり、寝付けなかったり、すでに死亡率はあがっています。
今は8階建ての新しい病院が建設中で、私たちはそこへの転居を強制されています。しかし、この目で実際に見た私たちは断言できますが、新病棟は決してハンセン病の専門医が提案したものではなく、我々には向いていない、我々の生活には対応していないものです。

今の居住施設は私たちの生活に合致するものでした。お互いに助け合える仕組みになっていましたが、この新しい病棟は普通の病棟です。10日ほどで退院することを前提にしたもので、ずっとそこで暮らす私たちの生活には対応していません。

私は15歳の時に入所しました。それから今までのできごとをずっと見てきました。

私が入所した時、父が何度も院長と話しました。父が、この子はどこにも行けず、どうしたらいいのかと尋ねると、院長はこう答えました。
「どうぞお子さんを病院に預けて下さい、病院が十分に世話をします。死ぬまで世話をします」
楽生院の施設には十分に広い用地があるので、野菜を作っても鳥を飼っても自由でした。私は院長の言ったことを信用して、それ以来56年入所しています。
とにかく私が言いたいのは、日本の弁護団、韓国の弁護団のみなさんに、補償請求だけでなく、この引っ越しについても、社会に発信し協力してくれることを期待しているのです。これはすべての入所者を代表して皆様の支援をお願いするものです。」

シンポジウムの1部は「ハンセン病問題の社会的背景と現状」、2部は「日本の国賠訴訟、補償請求訴訟の経験に学ぶ」

1部では、日本から徳田靖之弁護士、韓国からパクヨンリブ弁護士、台湾からは研究者の范燕秋教授が、それぞれの国のハンセン病問題について報告しました。
徳田弁護士からは、日本のハンセン病政策には、1 強制労働、2 断種堕胎、3 無らい県運動、4 植民地、占領地への拡大という世界に類のない特徴があること、そのために今も差別偏見が根強く残っていること、それをなくすことが現在の一番の課題であることが述べられました。
パク弁護士からは、ソロクトのみなさんが補償請求訴訟に至った経緯、その中で韓国の弁護団が結成されたこと、昨年10月には国会の中で報告集会を開いたこと、弁護団の活動を通じて社会がハンセン病問題に目を向けるようになり、国家人権委員会の取り上げるテーマにまでなったことが報告されました。
范教授は、日本植民地時代に確立された強制隔離政策を、国民党政権がそのまま引き継ぎ、1962年に隔離法は廃止されたものの隔離政策はそのまま放置されたこと、今回の強制移転問題もハンセン病患者に対する差別偏見を抜きにしては語れないことを指摘しました。

2部では、徳田弁護士が国賠訴訟の経緯、意義、その後の展開について報告し、国宗弁護士が補償法が成立した経緯、ソロクト・楽生院について訴訟提起に至った経緯を報告し、楽生院の日本における訴訟提起によって社会の関心が楽生院に向き、移転問題の解決の糸口になってほしいと願うこと、そのためには社会の支持の拡大が必要であり、入所者にはこれから積極的に外に出て訴えてほしいと訴えました。
シンポジウムは午後も引き続き行われましたが、弁護団は午前の部終了後場所を変えて台湾・韓国・日本弁護団による会議を開き、補償請求訴訟及び楽生院移転問題に関する仮処分について、法的な議論を行いました。ついで楽生院に移動し、施設を見学しました。

シンポジウムや弁護団会議の中での報告や議論が、楽生院移転問題を解決するひとつの力となってくれることを心より願ってやみません。
 
(居住棟にはられた強制移転反対スローガン)
(新病院の様子と、「人権を守れ。MRTとの共生は可能だ」と訴えるアドバルーン

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