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台湾総督府楽生院について

 1895年、日清戦争後の下関条約に基づき、日本は台湾を領有し、台湾総督府を設置して植民地支配を開始しました。

 1920年代半ば、全生病院長光田健輔は台湾総督に宛てて「台湾癩予防法制定ニ関スル意見書」を提出し、台湾にも多数の患者がいると推定して、台湾においても癩予防法を制定し、患者の隔離政策を推進する必要があると説きました。ここでは、光田は朝鮮の例をあげて、ソロクト慈恵医院の収容患者100名に対し欧米の基督教系病院が1200名の患者を救助していることが「朝鮮人ノ事大思想」を醸成し、植民地支配を危うくしていると述べ、台湾でも外国人宣教師によるハンセン病治療施設の設立が先行すれば、同様の事態が生じると迫っています。

 これを受けて、1926年に台湾総督に就任した上山満之進は、1927年度から3か年計画で療養所設立の予算を計上し、193012月、台北州新荘に楽生院を開設し、上川豊が初代院長に就任しました。当初100名の定員で開設された楽生院は、その後施設を拡張し、植民地時代後期には定員700名に増床されました。

 1910年の警察官による全島癩患者一斉調査により把握されていた患者数は800人余り、1930年に上川院長らによって行われた住民一斉調査では1084人でしたが、実際の患者は1万人を超えるとも噂されていました。

 日本による植民地支配がはじまった当時、台湾では、軽症のハンセン病患者が健常者にまじって生活したり仕事をしたりしている姿が見られました。総督府はこれを、「恐るべき病毒をまき散らしている」として、住民の恐怖心をあおり、強制収容、強制隔離の必要性を宣伝して行きました。ここでも日本と同じく「皇室のご仁慈」が利用され、「らい予防週間」にあわせて大々的ならい根絶キャンペーンが繰り広げられました。

 楽生院への患者収容は、日本と同じく「お召し列車」や「収容船」により行われました。患者発見のために行われた住民検査で発覚した患者を、警察官が駅や港まで連行し、台南から台北に向かう「お召し列車」に、各駅で患者が積み込まれ、台北の桃園駅でおろされ、さらに療養所に向かうトラックで楽生院に収容されたのです。患者を出した家は消毒され、家族は地域での偏見にも苦しみました。

 こうした強制隔離を一層実のあるものにするために19346月、台湾に勅令「癩予防法」が公布されます。

 一方で、1932年に台湾癩予防協会が設立されました。会長は総督府総務長官、副会長に総督府警務局長と文教局長が就任しています。ここでも日本と同じく教育の場での徹底した「恐ろしい伝染病」キャンペーンと、警察権力による患者あぶり出しの構図がみてとれます。

 楽生院は、幹線道路に近い斜面に建設されました。今は町並みが押し寄せ、回りを商店や家屋がとりまいていますが、設立当時は、見渡す限り畑がつづく、さみしい場所でした。道路に面して門があり、坂道を上っていくとまず事務本館(庁舎)が、その奥に治療室・医薬室、さらに回廊を上ると重病室と続きます。縦貫道路側が職員地帯、山手の方が患者地帯で、患者通用門には守衛室がおかれ、職員地帯と患者地帯との間には消毒用プールがありました。

 重病室につづいて「屍室」がありました。重病室の患者が亡くなると、遺体はこの建物に運ばれ、同じ建物内の解剖室で解剖されました。植民地時代に亡くなった入所者の多くは解剖されたといいます。

 左側ずっと山手の方には今も納骨堂が残っています。そこより更に山手に火葬場がありました。

 炊事、患者介護、治療室事務、火葬など、多くの院内作業は患者の手によっておこなわれていました。患者による煉瓦工場もありました。解剖の際も医療事務を担当する患者が立ち会ったと言います。

 患者地帯のまわりには鉄柵が張り巡らされ、職員地帯との間は生け垣や崖で区切られていました。

 外出はきびしく制限され、これを破って無断で外出したことが分かると監禁室に入れられました。男子の場合は監禁されるだけでなく、補導員から殴打されたと言います。

 現在、楽生院には350名の方が在籍されています。その中で日本植民地時代に収容された方は27名ばかり。どの方も、「日本警察による宣伝がひどかった」、「発病が分かったとき、日本警察に見つかると連行されるので逃げ隠れていた」と言います。

 台湾では、日本が退いた後、1960年頃からは外来治療が中心となりましたが、日本時代に徹底的な「無らい州運動」によって人々の胸に植え付けられた偏見は根深く、とりわけ当時屈辱的な収容を経験している方々の中に、いやしがたい傷となって残っています。


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台湾癩予防法制定に関する意見書」より抜粋
         第1区府県立全生病院長
      内務省保健衛生会員
      東京府技師    光田健輔
藤楓協会編『光田健輔と日本の救癩事業』(1958年)より引用)

「惟うに、台湾に於ける癩患者数は未だ正確なる統計材料なれと雖も、内地に於ける患者数と大差なしと仮定すれば、毎千に対す0・五を下らざるべく、果して然らば
約二千人の癩患者ありと推定するも過算にあらずと信ず。

(中略)

独り朝鮮に於ては、日韓併合に際し、畏多くも明治天皇陛下は朝鮮癩患者を軫念あらせられ御手許金三十万円を下賜せられたり。然るに漸く六年を閲し、大正五年朝鮮全羅南道小鹿島を相し、朝鮮総督府慈恵院創立し、百名癩患者を収容し、近来に百名に増員したりと雄も、此れをアメリカMTLによりて補助せられ、千二百名の癩を救助する大邱、釜山、光州の癩病院に比すれば、其員数に於ても、得た設備に於ても貧弱たるを免かれす。

(中略)

一書を呈し速かに癩予防の法を設けられんことを懇願す。

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